映画『聲の形』。感情的な言説について。

『聲の形』を見た。

原作は未見で、友人の誘いだったんだけど、舞台挨拶付きで見ることになるとは思わなかった。時期的にもどうしても『君の名は』と比べてしまうんだけど、内容的にはこっちの方が良かったと思う。

 

ただ、内容としていじめ、身体的ハンデキャップというデリケートな問題に関わる話で、ツイッターなんかを見ているとだいぶ荒れているなと言う印象だった。

 

togetter.com

僕としては、議論がごっちゃになっていると思っていて、まず、前述の二つの問題は切り分けた方がいい。その上で、作劇として考えた方が妥当だと思っている。

 

まず、身体的ハンデキャップの件。

本作の場合、障害そのものが主題ではない点は注意すべき。つまり、ハンデキャップがあって、がんばって乗り越える主人公の姿、という感じではない。ヒロインのハンデキャップはあくまで舞台装置と言うか、設定のひとつと言う感じ。

その意味で、感動ポルノについては、定義の点から見て、該当はしないと思う。

もし感動ポルノにするのであれば、物語はもっとヒロインの側から語る形になるだろう。本作の場合、それほどヒロインの内面が語られないので、ヒロインはむしろ謎めいた存在に感じる。

彼女の挫折、境遇、思い、みたいなものを物語の規定路線にしてしまい、消費するのが感動ポルノなので、そう主張している人はあんまりそういう定義とか深く考えずに「障害者の出てくる話=感動ポルノ」と言う風に持っていっているだけな気がする。使いやすい言葉なのだろう。

身体的ハンデキャップはきわめてデリケートな言説空間で、感情的態度が散見される。

 

そして、いじめの話。

こちらのほうは、いじめた側、加害者が救済されると言うことへの拒否反応だなーと思う。骨子として、加害者が被害者に謝罪して救われる話だと言う指摘は間違っていない。それはそうと、それが、物語としてあってはいけないという反応についてはちょっとどうだろうと思う。そういう物語はあるなしで言えば、あるとは思う。

それでは、なんでそんなに過激に反応されているかと言うと、いじめと言う普遍的な現象に対して、「終わっていない」人たちが沢山いるからと言うことが分かった。

これは程度や時期などによるし、これも、デリケートな問題と言わざるを得ない。

 

まあ、これらが結びついてしまうときわめて感情的にならざるを得ないのだろう。

さらにこれが漫画、アニメ的に作劇されたときに、デフォルメや理想化、抽象化されてしまうと、当然のことだが、実態・現実とは乖離してくるわけで、その有様が上記まとめになると言うわけだ。

まあ、それらについては、どうしようもないと言うか、袋小路な感じがする。

映画のテーマをもっと別の形にできたかと言えば、できたのかもしれないが、作者、この場合は漫画原作の方か、の考えるものにはならなかっただろうと思う。

 

僕個人としては、この映画のリアリティって良いと思っていて、あの状況、あのクラスに自分が居たらどうだったかをやはり問われると思う。それが誰なのかで結構見方も変わる。

僕個人は川井さんの感じが非常に良くて、自分としてラインを引いて、ジャッジする感じすごく良くわかる。彼女についてはまた改めて書こう。